kijifuのブログ

なんやかんやのアレ

昔の話

私は小さな田舎町で生まれ育った。物心ついたころにはもう両親が離婚しており、父親、4つ上の姉、祖父母の5人家族だった。父親は仕事柄、家に帰ってこられない日が多く、ほぼほぼ祖父母に育てられた。『母親がいなくて可哀想』とか、周囲に言われることもあったし、まわりをみて寂しく感じることもあったが、気付いた時にはもういなかったし、家にはとにかく甘やかしてくれる優しい爺ちゃん、わりとガミガミ言ってくる婆ちゃん、恐怖の対象でしかない姉ちゃん、休みの日はどっかに連れてってくれる親父。別にこれで十分だった。十分幸せだった。




中でも私はとくに爺ちゃんが大好きで、一緒に散歩したり、畑にいったり、家で遊んだり、どこに行くにもべったりだった。身体が大きく、力が強くて優しい爺ちゃんは本当に憧れだった。



爺ちゃんはよく私に『2人は仲良しやから』と言ってくれた。親父や婆ちゃんに怒られた時、姉ちゃんに泣かされた時、嫌なこと、悲しいことがあった時、何かしなくちゃいけない時、いつも爺ちゃんは私に『2人は仲良しやから』と言ってくれた。まったくなんの根拠もなく、なんの理由にもなってない言葉なんやけど、この言葉を爺ちゃんに言われたら、なんだかなんでもできる気になるし、元気になれる言葉だった。



私と爺ちゃんには日課があった。毎晩、7時~8時になると、爺ちゃんが『クリーム買いに行こや』と言ってくれる。〈クリーム〉

とは〈アイスクリーム〉の事で、普通は略した場合、〈アイス〉と言うが、爺ちゃんはなぜか、〈クリーム〉派だった。そしてこの〈クリーム〉派は今のところ、爺ちゃんしか知らない。笑

この言葉をきっかけに私は爺ちゃんといつも近くの商店にアイスを買いに行く。種類は、私はいつもバラバラで、新作だったり、バニラだったり、チョコだったり。爺ちゃんはいつも、カップに入ったかき氷タイプのものが好きでよく食べていた。個数は、2人だけだったり、みんなの分だったり、その日に食べる人で違った。でも2人は必ず、この時間には一緒にクリームを買いに行っていた。私はこの時間がたまらなく大好きで、ときどき、時間が来る前にこちらから誘っては、爺ちゃんと一緒にクリームを買いに行っていた。



爺ちゃんの話ばっかりだが、婆ちゃんも嫌いではなかった。毎日作ってくれる料理は美味しかったし、中でも本っ当にあっま~い玉子焼きが大好きで、お弁当がある日には絶対に入れてもらっていたし、保育所に行っていた頃は、婆ちゃんが連絡帳を書いてくれていたのでいつも送り迎えしてくれていたし、小学校に上がってからも、いつも起こして、用意をしてくれるのは婆ちゃんだった。でも、爺ちゃんと違ってガミガミうるさいところがあるし、すぐに怒るから、嫌いというか、少し苦手だった。だからより一層、爺ちゃん子になっていった。



毎日、小学校に行って、帰って来たら友達と遊んだり、爺ちゃんと遊んだり、姉ちゃんに泣かされたりパシらされたり、婆ちゃんのご飯食べたり、ガミガミ言われたり、姉ちゃんに泣かされたりパシらされたり、姉ちゃんに泣かされたりパシらされたり、親父が早く帰ってきた日は、親父のよく行く飲み屋に連れて行ってもらったり。親父が休みの日は姉ちゃんと3人で出掛けたり、家族みんなで出掛けたり。ずっとずっと、そうやって大きくなっていくと思ってたし、これが普通やと思っていた。




小学校三年生の終わり頃だったと思う。

爺ちゃんと婆ちゃんが立て続けに病気になった。婆ちゃんはもともと太っていて、糖尿と心臓がちょっと悪かったのが悪化したのと、そして認知症か、アルツハイマーのどっちか。爺ちゃんは、パーキンソン病

当時、介護認定や障がい者手帳のようなサービスもまだまだ浸透しておらず、田舎なので、施設に入れるなどもってのほかで、家族が家で面倒をみるのが当たり前だった。




小学校四年生になった。

そこから、少しずつ、少しずつ、今まであった家族の〈普通〉は無くなっていった。




婆ちゃんの料理が美味しくなくなった。最初は少し味が濃かったり薄かったりする程度だったが、次第に砂糖と塩を間違えたり、味がまったくなかったり、食べられないほど濃かったり。ご飯の水加減が分からず、お粥みたいな日だったり、芯が残っていたり。




爺ちゃんの動きがぎこちなくなった。最初はまったく変化がなかったが、次第に手足がよく震えるようになったり、小さな段差や、何もないところでつまづく様になったり、着替えるのに時間がかかるようになったり。



そしてこの四年生の頃、母親の存在を知った。親父と姉ちゃんと3人で出掛ける時にたまに一緒に会っていた、親父が友達だと言っていた、おばさんがそうだった。母親だと知る前は、(あの人が母親だったらいいのに)と思っていた人が、本当に母親だと知って、なんだかよく分からない気持ちになった。なぜこの時に知ったかというと、姉ちゃんが母親と一緒に住むことになったからだ。姉ちゃんは小1の頃に母親と離れ離れになっており、母親の記憶もあったし、いろいろ考えることがあったのだろう。私はそっちの驚きもあり、ますます何だかよく分からない気持ちになった。



仕事で帰ってこられない日が多い親父と、母親と一緒に住むことになった姉ちゃん。必然的に、爺ちゃんと婆ちゃんの基本的な面倒は私が見ることになった。

とは言っても、昼間は学校があったので、やる世話といえば薬の管理と、家事の手伝い程度だった。朝の薬を2人に渡して、昼の薬をまだ頭がしっかりしていた爺ちゃんに2人分渡して、帰ってきたら風呂掃除等、できる範囲の家事を手伝い、夜の薬を渡す。これだけ。これだけといっても、小学校四年生が薬の管理をしたり、帰ってきてからもあまり遊べず、家の手伝い。かなりしんどかった。でもその事を、1人で働いてくれている親父には言えなかった。私も少しずつ、疲れていった。




私は小学校で、いじめをするようになった。

きっかけは本当にちょっとしたこと。ある日、家で宿題ができないまま学校に行き、たまたまとなりの席の友達に『宿題やって』と言ったら、本当にやってくれた。確かそんなことだったと思う。そんな日が何日かに一回あったのがだんだん頻度が増して行き、たまに嫌がられても無理矢理言ったらしてくれたり。そんなことがエスカレートしていき、無理にさせたり、言うことを聞いてくれなかったら暴力を振るったり。自分ではまったくいじめている感覚がなく、そんな事が続いていたある日、とうとうその子の親にバレて、ボッコボコに殴られ、親父に言われ、ボッコボコに殴られ、親父と2人で家まで謝りに行った。自分を正当化するわけじゃないが、いじめをしている側は、本当にいじめている感覚がない。頭がちょっと麻痺してしまっている。まわりがはっきりしっかり伝えて、気づかせるべきだと思う。





小学校五年生になった。




婆ちゃんは、2、3分ごとに、同じことを何回も言う様になった。料理がまったくできなくなった。米を洗ってザルにあげ、自分の横に置き、また新しい米を出して洗っていた。季節感が分からなくなった。少し暑いとお盆の準備をし始め、少し寒いと年末年始の用意をしだした。食べ物の傷み具合が分からず、ひどい匂いの漬け物を食べていた。認知症アルツハイマーが身近にいる人は分かると思うが、身内に対してはこんな感じでも、なぜか外に出ると普通に見られる。婆ちゃんがどれだけ酷い状態かを理解してくれている人は少なかった。



爺ちゃんは、畑に行けなくなった。歩く時も、赤ちゃんのよちよち歩きのようにしか歩けなくなった。手が常に震えて、まったく力が入らなくなった。お箸やスプーンを上手に使えなくなった。身体の自由がきかず、ズボンを最後まで上げられなくなり、家の外を半ケツ状態で歩くようになった。トイレに間に合わず、漏らす事があるようになった。




私は、学校でいじめられた。

これは自業自得だし、今でも仕方ないし、当たり前だと思っている。でも、内容は自分の事ではなかった。爺ちゃんの事。おしりを出したまま外を歩いていた事。自分に母親がいないという事。親父の事。自分以外の事をたくさん言われた。これは辛かった。




学校では家族の事でいじめられて、家に帰れば、トイレに間に合わず、漏らした爺ちゃんがいる横で、婆ちゃんが同じ事を何回も言っている。薬を渡しても、婆ちゃんは飲んだことを忘れ、薬をくれないと言い、言い合いになると家を出て、近所に私が薬を飲まさないと言う。親父には自分がいじめていた時の事もあり、迷惑を掛けたくないので何も言えなかった。地獄だった。どうしていいか分からなかった。




私は





私は











2人に暴力を振るうようになった。







2人に暴言を吐くようになった。








とにかく2人が憎かった。

嫌いだった。

早く死んで欲しかった。

いなくなって欲しかった。

全部を2人のせいにした。





婆ちゃんはそのたびに家を飛び出して、私に殺されると言っていた。そのたびに近所の人が来て私を叱ったり、殴られたりした。



爺ちゃんはなにもせずに、ずっと耐えていた。それどころか、仕事から帰ってきた親父が近所の人に知らされ、私が親父に怒られている時も『2人は仲良しやから』と、ずっと私をかばっていた。でも、あんなに元気を貰っていたこの言葉なのに、爺ちゃんなんかと一緒にされるのが嫌で嫌でたまらなかった。



爺ちゃんはどんなに私が暴力を振るった日も、暴言を吐いた日も、毎日、いつもの時間になると

『クリーム買いに行こや』

と、誘ってくれた。もうアイスをスプーンですくう力も無いのに。

それなのに私は、よちよち歩きの、ズボンもまともに履けていない爺ちゃんと歩くのが嫌で、行かなかったり、暴言で返したり、お金だけ貰って1人で買いに行ったり、一緒に行っても、帰ってきて、うまく食べられない爺ちゃんにイライラして、また暴言を吐いたり、アイスを投げたり本当に信じられないような事をしていた。それなのに、爺ちゃんは、毎日毎日、いつもの時間になると

『クリーム買いに行こや』

と、言ってくれた。





ある日、爺ちゃんがどこで知ったのか、私に

『俺のせいで学校でなんか言われとるんか?』

と、聞いてきた事があった。

私はいろんなものが込み上げてきて、暴力や暴言も、何も出来ず、ただ泣きながら

『違う。何もない。』

としか言えなかった。

爺ちゃんは察したようで

『ごめんな。ごめんな。』

と、ずっと謝っていた。

私に暴力を振るわれた時でも見せないような、すごく悲しい顔をしていた。

あの顔はずっと忘れられない。




小学校六年生になった。

とうとう2人の面倒を家じゃ見きれないと判断した親父は、2人を施設に預けた。

私は、いじめにも飽きられ、仲間はずれにされるようになった。

学校にいても〈いないもの〉とされた。

じゃあ行く意味ないや。

家におっても、もう世話する必要もないし。

私はそうおもうようになり、一時期、あまり学校に行かなくなった。

このへんの事は、なぜか少ししか覚えていない。だから私は、六年生の頃をあまり覚えていない。



中学生になった。

いろんな小学校から集まる中学校だった。

私は幸運なことに気の合う人と知り合う事ができ、無事に友達ができて、生活を楽しくやり直す事ができた。なんとか元通りになった。

そして、2月だった。



爺ちゃんが亡くなった。

施設に入ってからの爺ちゃんは、病気の進行がとても早くなり、あっという間に寝たきりになり、いろんな管で繋がれるようになり、流動食になり、薬漬けになった。

私は時々、親父に連れて行かれお見舞いをしていたが、自分がしていたことの罪悪感もあり、既に寝たきりの爺ちゃんをまともに見れず、会話も出来ず、毎回帰っていた。それでも爺ちゃんは、いつも会うたびにとても嬉しそうにしていた。

そして、たまたまお見舞いに行った日に、爺ちゃんの容態は急変し、目の前で亡くなった。あんなに身体が大きくてちからが強かった爺ちゃんなのに、最後はヒョロヒョロで、火葬後は、骨さえもぼろぼろになっていた。

私は後悔した。私があんなことをしなければ、爺ちゃんはもっと長生きできたかもしれないのに。



でも、その後悔のまま、なにも動けず、婆ちゃんも私が高2の頃に亡くなった。

婆ちゃんは施設に入ってから、私が中学生になる頃には、私が誰だか分からない状態になっていた。親父がどんなに説明しても、1分もすれば忘れてしまっていた。

それでも、見舞いに行く度に、あの子は元気かとか、ちゃんと食べてるのかとか、ずっと私の心配ばかりしていた。私は、あんなに爺ちゃんの時に後悔したのに、また婆ちゃんに何も返せないまま、亡くなってしまった。




婆ちゃんが亡くなった後、遺品整理をしていたら、私が保育所の頃の連絡帳が出てきた。

婆ちゃんは、私の家での様子を、事細かに、欄いっぱいに書いてくれていた。それも毎日。何を食べたとか、何を言ったとか、何で泣いたとか。

そして、それと一緒に、婆ちゃんと2人で撮った写真が大事に保存してあった。




あんなに小さい頃、いつもガミガミうるさかった婆ちゃん。ちょっと苦手やった婆ちゃん。甘やかす親父や爺ちゃんのかわりに、私をしっかり躾けててくれたんやなあ。母親がいない私の為に、必死に母親がわりになっててくれたんやなあ。私が良いことをした時に、誰よりも顔をくしゃくしゃにして喜んでくれたのは婆ちゃんやった。





私は、あの2人は、いまでも自分が殺したと思ってる。私が2人にあんな酷い事をしなければ、もっと生きられたと思ってる。

あんなにたくさん、自分に愛を注いでくれたのに、私はなにも返さず、それどころか2人に酷いことばかりをした。



私は2人に、何度、死ねと言ったんだろう。

何度、暴力を振るったんだろう。

何度、物を投げつけたんだろう。


私がもっとちゃんとしてれば


何度、好きって言えたんだろう。

何度、ありがとうって伝えられたんだろう。




2人は仲良しやから』



爺ちゃんが何度も私を元気付けてくれた言葉が、自分の過ちのせいで、思い出す度に、何度も何度も自分を苦しめる。